フリーダムヒルズ青赤春白書:映画
2009-12-30T18:41:21+09:00
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もうだめかもしれんね。
Excite Blog
イングロリアス・バスターズ
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2009-12-30T18:41:20+09:00
2009-12-30T18:41:21+09:00
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blue-red-cherry
映画
クエンティン・タランティーノ監督の最新作、「イングロリアス・バスターズ」を見た(ちょっと前に)。
タランティーノ作は「キル・ビル」と「パルプ・フィクション」と「レザボア・ドッグス」、脚本まで入れると「フロム・ダスク・ティル・ドーン」も見たか。
そして今作の題材となっている第二次大戦下におけるナチスの悪行とそこから生まれる禍根に対する知識も、たぶん一般常識レベル以下のはず。
それでも(それだからこそ?)楽しめたのは、2時間で終わる、優れたエンターテインメントだったからだと思う。
シネマハスラーの宇多丸評を聴いてから感想文を書くのはあれだ、影響されるから難しい。
さっさと書かないとだね。
で、宇多丸さんも言っていた、多言語によるスリリングなだまし合い、探り合いのシーンは確かにハイライト。
冒頭、本作のメインキャストの一人であるランダ大佐が、大戦下のユダヤ人狩りを行って訪れたフランス人の民家での対話は、その後の本作の展開のみならず、ディテールの部分までの流れをすべて決定付けたほど、インパクトがあった。
スマートかつ執拗に、ねちっこく迫る対話術、複数言語を操るギミックで見事に民家の地下室に隠れるユダヤ人の存在を暴きだし、その後彼らに分かる言葉で希望を与える内容をこれ見よがしに聞かせてから惨殺するところまで、ランダという最悪で最高に魅力的なキャラは映画開始わずかで見ているものを釘付けにした。
ランダの嫌なキャラを印象付けるのみならず、この言語のズレを使ったトリックはその後のシーンでも妙となり、時代や舞台の空気を巧に利用した演出だった。
このランダのユダヤ人狩りを逃れた少女、ショシャナの復讐劇と、アメリカ発、連合国でナチスキラーと恐れられたブラッド・ピット演じるレイン“アルド”大佐率いる“バスターズ”の侵攻作戦、物語はこの二軸で進んでいく。
素性を隠し、フランスにて映画館を営んでいたショシャナ。
彼女に言い寄ってきたナチスの将校・フレデリックとの繋がりから、ショシャナはにっくきランダはじめ、ナチスの要人を自身の映画館に一堂に介させる期を得、映画館ごと燃やす作戦を立てる。
一方各地でナチスを狩り、インディアンよろしくナチ兵の頭皮を剥ぎ取ってはその名を轟かせたバスターズも、ナチの映画祭の情報を嗅ぎ付けた連合軍の指令でその作戦に参加することに。
画してまったく別軸で動いていた物語はショシャナの映画館でハイライトを向かえ、クライマックスに向かっていく、という流れ。
これ、実によく出来てて、まったく特にアルドとショシャナなんか、最後まですれ違いもせずに終わるんだけど、ひとつの物語になってる。
タランティーノがこの作品でひとつ、ブレさせなかった「ナチ征伐」のもと、それぞれのやり方で大戦下を生き、それぞれの理由でナチと対抗していた流れがひとつの渦で燃え上がってフィナーレを迎えるっていう。
ただいかんせん、1本の映画の尺ではたかがしれている。
ショシャナ編もバスターズ編も、非常にキャラ立ち、見所満載だっただけに、二部作構成にするくらいの長尺で見たかったのが正直なところ。
ナチ支配下なので、ナチの兵卒との邂逅はものともしないショシャナだったが、彼女がランダと接見する場面はショシャナサイドのハイライト。
狡猾で完璧主義者なランダを前に、必死に緊張と恐怖と怒りを抑えるショシャナ、そしてそうではないんだけどすべてを見透かしているかのように迫るランダの口調、席が解かれて緊張も解かれ、泣き出したショシャナの演技までの一連のスリリングさはたまらない。
終始抑え目なショシャナだっただけに、ラスト、彼女自身が死に絶えゆく中で、業火に燃えるナチの宴を見下ろす、スクリーンに映ったショシャナの復讐の眼差しも印象深い。
そこにいたるまでを抑えて撮っていたからこその、強烈なインパクトがあった。
バスターズのほうは、もうメンバーそれぞれがキャラ立ちしすぎ。
宇多丸さんはいろんな映画へのオマージュ、サンプリング的な手法にタランティーノをヒップホップ世代の映画監督と称しているけど、キャラに二つ名持たすところもヒップホップ的というか。
まあヒップホップ、ラッパーが二つ名持ちたがるのは多聞にして映画の影響が多いので、相互関係あると思うけど。
ズレたが、そのルーツをインディアンに持ち、儀式にこだわるアルドはもう、ブラピが好演。
あのゴツさの中に、どこかスマート、スタイリッシュさを感じさせるのはブラピならではだし、それがナチをダサいものとして扱う今作のテイストにぴったりハマっていたと思う。
バットでナチ兵の頭をかち割るドノヴィッツ、ナチから翻った殺人兵器・スティーグリッツと、設定・佇まい・振る舞いとすべてがカッコいい。
でも尺の関係から、彼らの活躍を見られるのはごく一部で、スティーグリッツなんかは早々にヤラレてしまうし、あっという間に最終作戦を迎えてしまう。
その最終作戦ではアルド以下、イタリア人に扮し、奇天烈なイタリア語を披露して観客を爆笑させ、ランダにあっさり捕まってしまうんだけど、そのユーモラスな一面に至るまで、二軸の片方として2時間に押し込んでしまうのはもったいない気がした。
とにかく魅力的なキャラがたくさん出てきて、粋な演出が随所に散りばめられた作品。
第二次大戦下のナチと、それに対するユダヤ人の復讐劇というテーマを持ちながら、この作品は娯楽作としてただただ楽しめる作品に仕上がっている。
やっぱり中でも際立っていたのはランダ大佐、クリストフ・ヴァルツの怪演か。
それだけに、エンディングだけが少々、いただけない。
戦争映画、戦時下のことをよく知らないから、だけなのかもしれないが、あれだけ狡猾で鋭く、完璧主義な男が、あんなにあっさりヤラレちゃうものなのかね?
アルドを知らないはずはないし、そんな簡単に信じちゃっていいのかと。
戦時下の上官の命令というのは偉大で、まさかそれを裏切る(しかも怒られるのを承知でやっちゃう)ような男がむしろ異端、というのが正解なんだろうけどね。
まあそんな違和感は小さなもので、とにかく単純に楽しませてもらったよ。
欲をいえばもっと長い尺で、もっともっと楽しみたかった。]]>
2012
http://blueredpsn.exblog.jp/13362459/
2009-12-30T18:38:00+09:00
2009-12-30T18:39:24+09:00
2009-12-30T18:38:44+09:00
blue-red-cherry
映画
ローランド・エメリッヒ監督お得意のディザスター・ムービー、「2012」を見た(ずいぶん前に)
この映画もそうだし、そうじゃないところでもにわかに騒がれつつあった、古代マヤ人による「2012終末説」を軸に、人類滅亡をめぐる人間模様を描いた作品。
1999年のノストラダムスによる終末予言で、近しい人を引かせるレベルでビビりまくってたオレは、この手の話は目にしないようにしてたんだけど、予告編見てたら画が凄そうで、なかなか面白そうだったので見てしまった。
事の起こりと顛末を伝えきるためには、それをずっと見続ける一人称があったほうが決着がつけやすい。
この物語では、テーマのひとつである人類みな兄弟的な博愛の部分にも通ずる、2つの目線がある。
ひとつが実際問題地球に起こったマグマ、コアの異常を発見時から追い、対処を考える科学者・エイドリアンの目線。
もうひとつは、一介の作家でありながら、数奇な運命の糸といくつかの奇跡を手繰り寄せてサヴァイブするカーティスの目線。
前者は学者、最初から最後まですべてを知り得、政府の選民のもとに行われる方舟計画に選ばれた男。
後者は何も知らされずその日を迎える一般人の代表者で、度重なる死の恐怖を乗り越えながら、観衆と同じように真実を知り、伝えていく媒介。
時折、物語にヒントを与えに現れるエイドリアンと政府の動きを挟みながらも、観衆はカーティスと自分の目線を重ね、終末を生き延びていく。
ゆえに、人口のほとんどを飲み込んでしまう未曾有の悲劇でありながら、しかもその爆心地に身を置きながら、一般人のカーティスがことごとく、奇跡的に危機を乗り越えていく演出が過剰にデフォルメされて写ってしまうのは致し方ない。
最新技術を施した映像はリアルそのもので、迫りくる災害の恐ろしさは身に迫る。
だからこそ、ファンタスティックに生き延びる一般人の演出が笑えてしまうんだが、それはご愛嬌、だろう。
むしろ博愛主義の落とし前の付け方はどうかと思った。
正反対の場所で事件に遭遇する両者は同じく、国や世界の方針に疑問を抱く。
動物や学者、次代に残すべき存在を優先し、その次は権力者、最後は金持ち。
政府が打ち出した方舟計画(宇宙に行くと思ったら、地球に杭打ち込んでやり過ごすってアイデアは面白かった!)の選民思想に対し、一般人のカーティスが何とか食い下がっていくのはもちろん、土壇場で(その時点で多くの人は死んじゃってるんだが)その思想を覆すべく、エイドリアンも世界のリーダーたちを説き伏せて、最後は一人でも多くの人を生き残して大団円、という流れなんだが、まああの時点でベストの選択かもしれないけど、結局感じたのは、「仮に同じことが起こったらあっさり死ぬしかないわけね」という諦観。
最後に、その状況下でのベストを尽くすことで「オレたちはできるだけのことをやったんだ」でチャンチャン、都合良すぎないかって。
ひねくれているというか、卑屈なものの見方ではあるが、どうせなら誰も助からないほうがよほど、博愛の精神を感じられたけどなー。
人類の種を絶やしちゃいけない、って、死んでく人のほとんど、人類のほとんどには関係ない話であって。
映像が凄いのは知ってたし、実際迫力満点で楽しめたんだけど、基本遊びはなく、シリアスなサバイバルが続いていくだけに、ストーリーの核となる部分の都合の良さがちょっと、気にかかった。
演者の演技も素晴らしかったと思う。
特にロシアの富豪・カルボフのキャラクターは非常に面白く、彼のハイライトとなる死に際に至るまで一貫して存在感際立った。
個人的にはマヤ終末説推し、ではなかったことも幸いした。
冒頭に書いたように、あの手の預言系に弱いので、奇人的描かれ方をしていたチャーリーを除けばこの映画でマヤの預言説を訴えるものはいない。
逆に科学的に立証されていくマグマ沸騰説は、確かに恐ろしく、地震の頻発から崩壊の始まりに至る件も迫力あるんだが、散々っぱら方々で言われているとおり、その説自体のリアリティはさほど感じさせず、夜眠れなくなるようなことはなかった。
面白く、楽しんだとは思うんだけど、歯に引っかかるものが残った。]]>
クリスマス・キャロル
http://blueredpsn.exblog.jp/12990610/
2009-11-18T00:41:01+09:00
2009-11-18T00:40:58+09:00
2009-11-18T00:40:58+09:00
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映画
先週の土曜、14日はTOHOデーということで、TOHOシネマズにて「クリスマス・キャロル」を見てきた。
「THIS IS IT」、2回目でも良かったんだけど、連れの希望もあってこちらに。
人生初の3D映画鑑賞となった。
というか、デジタル、フルCGというタイプの映画も滅多にみない、ひょっとすると、映画館で見るのは初かも。
名作であり、定番の物語として知られる原作は恥ずかしながら存ぜず、ディテールだけでなく、内容の部分でもフラットに鑑賞した。
こういっちゃあなんだが、まあよくある話だ。
偏屈で頑固者で守銭奴、エゴイスト、とにかく嫌われ者で嫌い者の爺さん・スクルージ。
世間と戦うことに生きる意味を見いだしているようなスクルージが、もっとも忌み嫌うクリスマスの日に、共に世から距離を置いて生き、先に逝った相棒・マーレーの亡霊に「このままだとロクな死に方しないぞ」っと諭される。
さらにマーレーの言葉どおり、スクルージの考えを改めさすべく、スクルージにその過去・現在・未来を見せる3人の精霊が訪れ、それぞれ、スクルージ自身の哀れな姿を見せることで正しい姿に導いていく。
晴れて改心したスクルージは、幸せなクリスマスを過ごし、幸せなクリスマスを人々に与えられる、稀に見るいい爺さんになりました、とさ。
簡単にまとめるとこんな話。
単純な話は好きだし、定番は間違いない良さがある。
それもディズニーが、ロバート・ゼメキスがやってるんだから、外しもない。
古きヨーロッパを思わす街並みと、そこに活き活きと生きる個性豊かなキャラクター。
スクルージが金貸しという設定だから、というのもあり、貧富の差をしっかりと背景に描くことで、ストーリーや、正しく生きること、クリスマスの精神というメッセージの強度にもブレがない。
元のスクルージを醜悪に描くことで社会悪を強烈にあぶり出し、さらにスクルージの穢れない過去から堕ちていく現在、おぞましい終末を描き加えることで悪性は強まり、そこから救い出す、正しいお導きが引き立つってもの。
よほどのひねくれものでない限り、(スクルージの突き抜けた改心ぶりはやや大袈裟だとしても)正しく生きたほうがいいんじゃね?って気にはなるはず(何が正しいかとかを論じる気はない)。
「クリスマス・キャロル」であり、クリスマスをまたいだ二日間、過去・現在・未来のクリスマスを重要なファクターにした物語ではあるが、祝福こそあれど浮き足立った感じはない。
それこそここ数日、街を歩いて「ああ、そんな季節か」と思わせられたイルミネーションや音楽による煽りとは一線を画す。
クリスマスが本来持つ、敬虔で、高潔で、かつ幸せなモノとしてのあり方を、この映画は思い出させてくれる。
個人的には最近ちょっと調子に乗りすぎてた節があり、やらかしもあったので、グサグサと突き刺さるものがあった。
とまあ、ストーリー展開も楽しんだんだけど、やっぱり描き方にやられた。
まずベースなるキャラや背景、デジタルCGのアニメーション。
人の作りこみがハンパない。
表情、動作、ひとつひとつが生々しくって、しかも感情ごとにデフォルメしてくるものだから、ある意味人より人っぽいくらい。
ディズニーらしい鮮やかで暖かい色彩感覚を残しつつ、デジタル処理による滑らかさと相俟って、どれもこれも美しい。
そして3D!
さすがにガキの頃のセロファンではなかったがw、ゴム製のメガネを着用して見たその映像は…凄いの一言。
「キャプテンEO」くらいしか思い出なかったんだけど、所謂3Dで思い過ごしがちな、モノが飛んできたり手が伸びてきたりするんでしょ?という演出なんてワンノブゼム。
確かに飛び出してきたり、というアクションでも楽しませてくれるんだけど、その逆、引き込まれていく演出が凄い。
奥行きが確かに存在し、例えばスクルージが精霊に導かれて空を飛び回るシーンなんて顕著なんだけど、キャラクターの高速の動きと、すれ違う背景との対比を見事に使い、重力や空気抵抗すら感じられそうなレベルで、自身の体がスクリーンに引っ張られている感覚に陥った。
前から3列目、しかも哀しいことに自分、鼻が低くてメガネが合わなかったり、さらに直前にメシ食ってきたこともあって、正直酔いましたww
いや、冗談抜きで三半規管弱い人はたぶん、酔うね。
それでも一度は見る価値あると思う。
子供だまし、飛び出る映像だけじゃない、3Dの世界。
予告編で見せてもらった話題作「AVATER」とか、「アリス」とか、まーすごそうだわ。
最新技術だけでなく、醜いものはとことん醜く、美しいものはとことん美しく描く、ディズニーの物作りも堪能。
精霊がスクルージに見せるエグい世界なんかはおよそ、ホラーの世界。
子供向けの話ではあるが(同じくらい大人向けでもある)、泣き出す子供、続出してそう。
その代わり、ハッピーなシーンの華やかさったらないね。
ハッピーエンドだからってこともあるけど、その幸せな余韻がディズニーランドに行きたいっていう気持ちにさせるのはある種当然かもしれない。
なんだかんだで、いろんなところを楽しませてもらった。
オレは知らなかったけどw、誰もが知ってる名作を現代に甦らせるという作業、2時間のパッケージに収める仕事としてはかなりいい仕事をしたんじゃないんでしょうか。
あ、そうだ。
フル3Dの映画だと字幕も3Dの対象になるんだけど、それだと情報量が多すぎて目に負担がかかるだかなんだかっていう理由で、オレが見た映画館はこの映画、3D上映は吹き替え版だけでした。
事実、3D映画の予告で見ると、字幕も3D加工してあったな。
あれ、アニメだと絵が多すぎるってことで、実写だと平気なのかな。
調べずに書いて申し訳ないが、一応。]]>
THIS IS IT
http://blueredpsn.exblog.jp/12800257/
2009-10-31T16:40:43+09:00
2009-10-31T16:40:39+09:00
2009-10-31T16:40:39+09:00
blue-red-cherry
映画
マイケル・ジャクソンのファイナルツアーとなるはずだった、ロンドン公演のリハーサル映像を軸に構成された映画、「THIS IS IT」を観た。
結論から言ってしまえば、オレ自身は強く感銘したし、メッセージも受け取った。
替え玉説やら、いろんなきな臭い話が飛び交っているが、そんなの関係ない。
オレがこの映画に見いだした真実は、マイケル・ジャクソンへのラヴとリスペクト。
マイケル・ジャクソンを自身の心の中に永遠の存在として輝かせておきたい、そんな向きは絶対に観ておいたほうがいい。
この映画から得られることのひとつとして、ロンドン公演が行われていれば、という念がある。
ダンサーの映像を何万人にも膨らませたド迫力の「They Don’t Care About Us」、オリジナルのPVを思い出させる映画とのコラージュ「Smooth Criminal」、あの偉大なるホラーPVを現代の技術で甦らせた「Thriller」。
強いメッセージを、スクリーンとステージを同期させた演出で、感動と共に届ける「Earth Song」。
映像もセットも、1アーティストのステージとして作られているのが信じられないくらい、1曲1曲とことんまで作りこまれている。
規模感も凄まじいし、その1つ1つのクオリティが一級品のエンターテインメントであり、それらを見ているだけで、このステージが実現したら…どれだけ凄いことになったのか。
ディテールの凄さよりも凄みがあったのがマイケル、その人その才能。
正直、齢50を数えるマイケルの、無謀ともとれるロンドン50公演に、ファンであろうとも少なからず、疑念があったのは間違いない。
しかし、リハーサルをこなすマイケルの姿は、そりゃ歳を取ったし、身体的な変化もあるのは事実だが、迸るエナジー、光るタレント、そのステージングには期待こそ高まれど、不安にさせるものは何もない。
「Wanna Be Startin’ Somethin’」、「Jam」、ダンスに歌に、流す姿も続くものの、長丁場のリハーサルゆえ、至極当然。
むしろ驚かされるのが、モチベーションが高まっているときの映像だ。
コーラスの女性との掛け合いが徐々に熱を帯び、エンディングではいつまでも終わらないアレンジで美声を響き渡らせる「I Just Can't Stop Loving You」。
希代の名曲で延々踊り続ける「Billie Jean」。
幸運にも(ある意味不幸でもあった)この公演のメンバーに選ばれたダンサーたち、マイケルの「THIS IS IT」へ向けたパフォーマンスを観ることが許された数少ない彼らの興奮からもその凄まじさが伝わってくる。
「ちゃんとやれんのか」どころか、他を圧倒するレベルでのパフォーマンスを、少なくともこのリハーサルの段階でマイケルは、成しえていた。
マイケルの楽曲はもちろん、オリジナルが素晴らしい。
途中挟まれるバンドメンバーの声にも、オリジナルに忠実であることが前提とされるという旨の発言がある。
しかし、その素晴らしさはライブアレンジにより、さらに輝きを増すように思う。
最高のループはマイケルのさじ加減ひとつで伸び縮みし、ボーカル、ダンス、演出、様々なエッセンスを際立たせる。
マイケルのツアーに賭けるこだわりはハンパじゃない。
脇を固めるスタッフは、この作品を監督しているケニー・オルテガに始まり、コレオグラファー、証明、音響、美術にいたるまですべてがプロ。
オーディションを乗り越えて選ばれるダンサー、バンドのメンバー然りだ。
これも劇中にあった言葉だが、彼らひとりひとりはプロであり、高い技術を持っているのは当然で、その上で人を惹きつける華を持っていなければいけない。
事実、「The Way You Make Me Feel」でマイケルと絡む女性ダンサーなんかはかなり美しく、しなやかで、この先独り立ちしても充分活躍しそうなくらい、光っていた。
「Black or White」で迫真のギターソロを効かす、女性ギタリストも見逃せない。
それだけ随所にこだわっているからこそ、そのどれもを輝かせ、そのどれもがマイケルと絡み合うようにあらなければいけない。
そのために練られたアレンジだからこそ、マイケルの楽曲のライブヴァージョンが素晴らしいんだ。
劇中の登場順に並べられたサントラのトラックリストを眺めるだけでため息が出る。
まさにヒットパレードだ。
ここまで書いてきたように、1曲1曲は演出、パフォーマンスに合わせて細部までこだわりを持って準備されており、マイケルと演出、マイケルとバンド、マイケルとダンサー、ピュアで、熱い思いのぶつかり合いを挟みながら、映画は進む。
ただのヒットパレードではない。
その曲に、そのパフォーマンスに込められた思いを受けながら観るヒットパレードは、思いも感動もひとしおだ。
だが。
その曲、パフォーマンスが活き活きすればするほど、マイケルを失ったという事実、哀しみが増す。
今、スクリーンから観るパフォーマンスでオレを惹きつけるこの人はもう、この世にいないんだ。
このキレキレのダンス、すっと入り、奥深くを熱くさせるこのボーカル、もう観ることは、聴くことはできないんだ。
著名人によるこの映画の感想で、最初から最後まで泣きっぱなしでした、なんてのを目にしたが、少しも大袈裟ではない。
この事実を重ねて観てしまえば、それは泣きっぱなしも仕方のないことだ。
オレは頑張って、極力そのパフォーマンス、エンターテインメントにどっぷり浸かろうと努力したが、ファミリーの映像を挟みながら送られたジャクソン5メドレー、特にしっとり歌い上げる「I'll be there」ではさすがに堪えきれず、薄く嗚咽を漏らしてしまった。
I Just Can't Stop Loving You.
作品内で、随所にマイケルの生前の思い、環境破壊を始めとした地球の危機を救いたいという思いが発せられている。
マイケルに感動をもらい、その楽曲でこれからも楽しませてもらうオレたちファンは、少しでも彼の思いに応えなければいけない。
いろんな思いが去来し、余韻として残ったこの映画。
観終わったあとも、楽曲を聴けばその姿が思い浮かぶ。
恐らく劇的な復活、そして伝説を築いたであろうロンドン公演が叶わなかったことは非常に残念だ。
マイケル自身が見せたくなかった裏側が公開されたことへの賛否も分かる。
しかし、オレはこの映画が見られて良かった。
マイケルのいろんな話が語られる中で、この、奇跡の復活劇にかける、打ち込むマイケルの姿が見られたことは本当に良かったと思う。
音楽に愛され、音楽を愛した男、マイケル・ジャクソン。
彼の歌は永遠であり、彼の存在もまた、オレたちの心の中で永遠の存在になる。
その手助けをしてくれたこの映画を見られて、本当に良かった。
映像作品化、難しいだろうけど、期待している。
We love MJ, forever.
foever, and ever, and ever.]]>
サマーウォーズ
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2009-08-16T11:29:00+09:00
2009-08-16T11:33:08+09:00
2009-08-16T11:29:06+09:00
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映画
金曜日の映画はしごデーのもう一本は、TOHOデーの恩恵にあずかり、1,000円で「サマーウォーズ」を鑑賞してきた。
細田版「時をかける少女」は未見。
日テレ深夜のテレビ版エヴァ再放送時の抱き合わせプロモーションですっかり、山下達郎の主題歌がすりこまれてたんだけど、あまり情報入れずに素直にフラットに向き合ってきた。
今よりちょっと、いやだいぶかな、webやモバイルを使ったコミュニケーションが盛んな世界。
オープニングの5分で説明を受けるOZという仮想世界は、個人をアバター化し、あらゆる情報を取り込んで巨大化、個々に繋がりを持たせつつ、ゲームやメールといったCtoCのコミュニケーションはもちろん、企業から自治体までがリアルの代替の場として認めた(例えば公共料金の支払いとか、選挙の投票までできちゃう)、アノ「セカンドライフ」どころの騒ぎじゃない浸透ぶり。
しかしその数十億人を超える会員を抱え、実質仮想世界がリアルを食いかけてる世界に生きる人々は、ひと夏のアバンチュールを夢見る男子高校生だったり、誰よりも血の繋がりを大切にする、田舎の大家族だったりする。
OZの世界にどっぷり、数学オリンピック日本代表候補にまで登るものの、数学以外はからっきしダメな高校生・健二は、全校生徒憧れのマドンナ、夏希先輩の「彼氏のフリをする」というバイトをこなすため、長野県上田市の名家・陣内家での生活が始まる。
彼はそこで大家族と寝食をともにし、自らとOZが巻き起こしたトラブルと対峙しながら、血の通ったコミュニケーションを学び、成長していく。
そんな彼に大家族も突き動かされ、健二と陣内家、クライマックスを迎える…そんな話。
OZと陣内家。
この2大設定がとにかく「あったらスゲー」な世界観、でありつつ、「ありえねー」ではない感覚。
OZの浸透度はハンパじゃなくって、でもあの「一瞬ですべての言語を翻訳し、言葉の壁をなくす」機能があれば、リアルな現実世界でも、この手のサービスが一気に加速するのは大いにありえると思った。
セキュリティーの強固さが実現した、リアル相当権限の委譲も面白い、仮想世界で個々人の個性が活かされる面白いアイデアだと思ったけど、これに関してはリアルと同じだったら仮想世界を楽しみきれないんじゃないかという疑問と、結局のところソフトやサービスがセキュリティーを上げたところで、流出させちゃうのはバカな一個人の振る舞いだったりするから、セキュリティーを上げることで実現したwebを飛び出した権限や金の動きが仇になる可能性は往々にして考えられた。
そんな夢のないことを取っ払ってOZの世界を魅力的に移していたのはそのグラフィックとアニメーションにほかならない。
すごすぎる機能が張り巡らされた世界の一方で、個性的なアバターは親近感を覚えるものばかり。
CGとアニメが見事に融合し、合理的で夢のある世界が、目の前に踊っていた。
最終的にはOZこそが強大な敵となって健二たちに立ちふさがったわけだけど、実に魅力的な仮想世界だと思った。
そして陣内家。
「じんない」と「じんのうち」じゃ、だいぶ格の違いを感じてしまうのは、なぜなんだぜ?
古く戦国時代、武田家との繋がりを持つ武家一家は、一族凋落の危機を乗り越えながら、武家としての誇りを脈々と受け継いできた大家族。
現・当主である栄おばあちゃんの武士っぷりたらなく、そのおばあちゃんへ全幅の信頼を置く一族の繋がりもハンパじゃない。
「うちではこうだから」を恥ずかしげもなくを健二に振りかざす家族の迷いなき繋がりは、OZと共存しつつも強力なアンチテーゼとして存在する。
そんな陣内家にOZ界のスーパーヒーロー・キングカズマの中の人がいたりするから面白いんだけど。
つうか、誰かが書いてたけど、キングカズマの佳主馬くんはじめ、陣内家はリア充すぎて哀しくなるってのはひとつ、正しい感情だと思う。
田舎の心温まる家族ではあるけれど、ばあちゃんは電話(しかも黒電話)ひとつで大臣やら官僚やらを動かせるフィクサーだし、息子たちは警察官に救急隊員、消防士、医者に漁師、電気屋やらなんやら、ただならぬ腕っぷしを持った頼もしいヤツばかり。
まあでも、そこで卑屈になっちゃうよりは、そんな大家族が巻き起こすドタバタな数日間を単純に楽しんだほうがいい。
OZの混乱は陣内家の夏の大イベント、ばあちゃんの誕生日を襲うが、その主役のばあちゃんの舵取り・励ましがバラバラな一家を繋ぎ、一家のはぐれ者である侘助の帰還が災厄となり、挙句ばあちゃんが死んでしまう悲劇を経て、再び家族がばあちゃんをかついで立ち上がるまでのエピソード。
「家族」という繋がりだけが持ちうる、愛、信頼、本気で素っ裸のコミュニケーションの強さは、この夏休みという時期にピッタリのテーマだと思う。
最新の技術で美しい映像世界を支え、現代社会ならではの近未来的世界とその病理を古き良き大家族で埋める。
軸のテーマ設定とディテールの部分こそ、今を感じさせるものだが、心温まるストーリーは、時折挟まれるユーモア含め、ベタであるからこそのアニメへの愛を感じるものが多かった。
エンディングの鼻血ブーを出すまでもなく、遡っていけば、落っこちた衛星が温泉を発掘する都合良すぎない範囲の奇跡、ラスボスとのカウントダウンバトルの緊張感と、主人公たちを中心に世界中を巻き込んでいく号泣必至の高揚感、各々の世界で活躍する陣内家一族の英知を結集させる様はRPG的だし、最後は主役の健二とヒロインの夏希がフィニッシュするところもやはり、ベタ。
新しさをふんだんに取り入れた世界に触れ、興奮を得ながらも、最後どこかホッとして終われるこの作りが本当に素晴らしく、ここが広い層に評価されるポイントなんだろう。
ベタに泣かせる展開で、ベタに泣けちゃうのってやっぱり、作品力、キャラ力、編集力、いろいろあると思うけど、ベタが安易でない証拠だ。
みながアバターを差し出しての夏希の花札が感動を誘ったのは、夏希の魅力であり、あそこで命運を預けられたのが花札という設定だったからであり、それまでのOZと陣内家のエピソードが積み重なった結果だったから。
ちょっと薄味な感じもするが、貞本デザインのキャラはなんともいえない魅力があるな。
ベースはフラットなんだけど、伸びしろがあるというか、表情がものすごく豊かで、それこそクライマックスでエヴァの暴走みたいに歪んでいく健二とか、ああいう壊れも自在だし、ホの字展開で全身がサーモグラフィ丸写しみたいに真っ赤になってく演出とかも可能にする。
監督やスタッフの使い方の巧さってのもあるんだろうけど、それを許すフラットなデザインがいいんだと思う。
健二の成長。
健二の成長と男ぶりが夏希を振り向かす展開。
健二の成長が陣内家に認められ、家族の力を解き放つラストバトル。
すべてのきっかけで、すべてを見守ったばあちゃん、朝顔に囲まれた遺影の美しさ。
キラキラで、心に刻まれたシーンは数知れない。
09年の夏の思い出に、いい映画と出会えてよかった。]]>
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
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2009-08-15T14:38:00+09:00
2009-08-16T10:14:22+09:00
2009-08-15T14:38:03+09:00
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映画
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」、2回目。
公開1ヶ月半、夏休みとはいえ平日の夕刻に、まだまだ満席の人気ぶり。
もちろんリピーターも多いだろうけど、終演後のざわめきを聞く限り、初見のお客さんも多そうだ。
2回目を見終わった感想としては、またすぐに見たい!というのが率直なところ。
ブルーレイを手に入れるまではまだ長いことまたなきゃいけないわけで、しっかり目に焼き付けようと思って見てたんだけど、また見たいと思わせるシーンの連続。
困ったなあ。
初めて見てから昨日、2回目を見るまでの間にテレビシリーズと旧劇場版を全部見終えたわけなんだけど、それを踏まえるとやっぱり「破」はアスカとマリだよなあ。
そもそも昨日、どうしても見に行きたいという欲求を我慢できなかったのは、アスカの透け透けテストプラグスーツを見たかったのが一番大きいんだけど、あのシーンの重みはそれだけ楽しませてくれといてのどん底を味合わせてくれることにあったことを忘れていた。
新劇場版のひとつの軸は、「序」のヤシマ作戦のエンディングに始まり、「破」のラストで究極の形に結ばれるシンジとレイの関係にある。
そのときに、旧作でバランスの取れた三角関係を築いていたアスカの存在を絡めると、その破綻となったシンジに対するパイロットとしてのコンプレックスの肥大だったり、描くことが多くなりすぎて、シンジとレイの強い結びつきにブレが生じてしまう。
アスカの設定は変えざるを得なかったんだと思う。
3人の関係上では、レイの「ぽかぽかする」「ぽかぽかしてもらいたい」を引き出すための「どう思ってんのよ?」であり、「それって好きってことじゃないっ!」という役割を担わされる。
アスカのパーソナリティでもテレビシリーズ終盤からEOEのラストまで、自我が破壊、崩壊していく流れとその前にあるエネルギーに満ち溢れたアスカ、その両方がなくって、高飛車でありつつも内省的な部分が、ワンダースワンっ子であったりとか、表面にも出ていたり、他人を拒絶する自己を早々に認識しつつ、シンジたちとの触れ合いで変わっていく自分に早く気付けるっていう。
惣流が式波になって、痛さや毒が少し弱まって、より万人に愛されるアスカになった気がする。
だからこそ、3号機事件の悲惨さの強度もフルボリュームなんだよ。
2号機との絶妙なコンビネーションを見せてくれる爽快極まりない登場に始まり、サービスサービスゥなお風呂上りカット、シンジとの心の壁を溶かす添い寝シーン、透け透けプラグスーツを着ながらのミサトへの独白フラグ、最後のセリフは「そっか、私、笑えるんだ」…。
カヲルくんの言う「今度こそ幸せにしてみせる」じゃないけれど、アスカにも幸せが訪れることを期待させる、そんな流れでの仕打ちは改めて、堪えた。
トドメのリツコによる「貴重なサンプルなんだから」発言…。
「処置」こそされないんだろうけど、もう、アスカはどうにかなっちゃってるわけで…。
まあでも、生きてこそ、だ。
まだアスカは生きているんだ。
あの眼帯をつけたアスカが幸せを掴むことを願って止まない。
余談だけど、アスカって「あんたバカァ?」みたいな攻撃的なところだけじゃなくって、シンジと添い寝しながらのとこみたいに、低く抑えた声で喋るところもステキだと思うんですよ。
だから稲垣早希ちゃんには、いつもの高いテンションだけじゃなくって、その辺のものまねもぜひ、見せてほしいと思ってます。
とかなんとか、「今日の日はさようなら」を聴かされながら思ってたんだけど、ごめん!
第10使徒がやってきて、凍結された2号機に乗るアスカ…ではなくてマリの登場で、やっぱマリええわーっとにやけてしまってました。
あのピンクプラグスーツの装着シーンから一挙、ザ・ビーストあたりまでのノンストップマリ、いや、ヤラレても「死ぬとこだったにゃ」で済ましちゃって、かつウダウダしてるシンジの背中を押すところまで。
「破」の最大のクライマックスである第10使徒戦におけるマリの存在感は絶大だよね。
シンジとレイの戦いなんだけど、口火切って、ヤラレて、獣化して、ヤラレながらもATフィールドを噛み切るなんつう荒業見せてシンジと絡んで終わるっつう大役。
アスカショックに浸ってる間もなくのこの展開、優しいようでいて酷だわ。
OPでの仮設5号機による第3使徒戦に始まり、まだまだ第3新東京市では非公認ゆえに中盤戦は鳴りを潜めたけど、パラシュートでの登場と匂いのくだりも見過ごせないし、マリもやっぱり「破」を象徴するキャラだ。
「三百六十五歩のマーチ」、ビースト時の「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ!」発言とか、マリはやっぱ14歳は無理あるよなー。
「1人でやりたいわけね」っていうミサトの口ぶりからするとミサトも知ってるっぽいし、となるとミサトの留学時代ってことになってっていう。
そういう意味でもエヴァの世界観を覆す強烈キャラ、ますます目が離せません。
アスカとマリの存在感を改めて痛感した2回目の鑑賞だったわけだが、それ以外ももちろん素晴らしかった。
CGがふんだんに使われたことは、エヴァそのものや使徒よりも、背景とか乗り物の描写でより凄さを発揮していた。
ユイの墓参りから帰るゲンドウのヘリとか、第3新東京市の朝のシーン(最高!)での電車やクルマの動きとか、重厚さのある質感と、滑らかな動き、どちらも目を奪われる。
絵の造形美でいけば、やっぱり使徒の変体がどれも凄い。
零号機を飲み込んでヒト化する第10使徒も凄いけど、強さ弱さは別として、2号機に早々に倒される第7使徒、落下してからの支える初号機とのパワーバトルを展開する第8使徒とか、圧巻だ。
キャラひとりひとりの顔立ちも洗練されてて、特に昭和感が、これはある意味売りでもあったと思うけど、ミサトとリツコのバブル感がだいぶ薄まった気がする。
あとトウジの妹の反則級の可愛さは、一瞬のインサートだからこそ忘れられないのかな(あ、トウジといえば、3号機パイロットのくだりの直前、アイスキャンデーの「ち、はずれか」伏線が目についた)。
あとはやっぱりシンジとレイのラストバトルだよなー。
最終的にはシンジの愛、レイを生かし、自分も生きることを選択した熱量が初号機の覚醒、サードインパクトの誘いに繋がっていくわけだけれど、そのシンジを突き動かしたレイの特攻は、「碇くんがもうエヴァに乗らなくてもよくするために!」という一心がきっかけなわけで。
あのN2爆雷持参の特攻、あそこから初号機が使徒のコアからレイを救い出す、そのシーンまで繋がってるからこその感動がある。
最初に見たときは、男らしいシンジ、リアルに「第拾九話 男の戦い」を成就するシンジの変貌に感嘆したけれど、思えばヤシマ作戦の笑顔から、弁当~食事会計画を経て、シンジとゲンドウを結びつけるDATを抱えての特攻まで、レイこそ、この「破」で変わったキャラクターだと思う。
2回目で手にしたパンフにある、鶴巻監督インタビューの結びにあるとおり、壮絶なバトルのあと、エンドロールの静寂を経てのエピローグ、次回予告のインパクトは絶大で、「破」の検証もやりがいはあるが、「Q」への期待感と不安感、それぞれの膨らみはハンパじゃない。
あのままでいることが幸せなんじゃないかと思えてしまうシンジとレイは、初号機とともに凍結されるそうだし、ネルフ職員は幽閉されるという。
最後の最後に登場したカヲルと6号機はロンギヌスの槍を持ったままセントラルドグマへ降りるらしく、何かを引き起こすんだろう。
気になるのは「胎動する8号機とそのパイロット」のくだり。
胎動?8号機?
うーん、わからんことが多いのは嬉しいことなのか。
ひとまず、昨日見た「破」の余韻をできるだけ長く、引っ張るしかないな。
「Q」に出会う、遠い先のその日まで、フィギュア買ったり、ブルーレイの発売に乱舞したり、まだまだやれることはいっぱいあるしな。
でももう一回くらいは見にいってもいいかな。
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インクレディブル・ハルク
http://blueredpsn.exblog.jp/12071622/
2009-08-04T16:40:54+09:00
2009-08-04T16:40:53+09:00
2009-08-04T16:40:53+09:00
blue-red-cherry
映画
「アイアンマン」以来のマーベルもの、「インクレディブル・ハルク」を見た。
実は何度からレンタルしてきてたんだけど、何本か借りてきた中の優先順位3番目くらいで、借りては見られないまま返したりしてたんだよね。
見るたびにファン度が増してきた、エドワード・ノートン主演ってのも惹かれてた。
すべてにおいてベタなシナリオ、展開だったけど、だがそれがいい、そんな映画だった。
エドワード・ノートン演じる物理学者、ブルース・バナーは軍の要請で、それが恐ろしき兵器・兵士を生み出すプロジェクト=スーパーソルジャー計画への加担と知らずにガンマ線による研究を続け、自らを実験台とした結果、主に怒りを感じ、心拍数が200を超えると全身が緑、体型からパワー、強度まで規格外の超人、ハルクに変身する身体になってしまう。
ひとたび変身すると、身体はブルースの手を離れて制御ができなくなり、自身に相手に多くの犠牲を生むこととなった。
事態を心に病むブルースは、超人化を制御すべく平常心を保つための精神鍛錬や、自らの身体を救うための研究を進めつつ、その力を我が物とせん、軍からの逃亡生活を続けていた。
研究を裏で操った軍幹部、ロス将軍の娘にして、一緒に研究を進めていたベティとの再会を契機に、軍との直接対決が始まり、自ら志願して新たな生物兵器となったブロンスキーを巻き込んでのバトルが物語をクライマックスへと進める。
思考はスマート、心優しきブルースのキャラクターもあり、ともすれば軍への復讐劇になりそうな設定が、軍から追いかけられる設定へ。
単純に復讐劇よりは、悪意のない悪として追いかけられるこっちの設定のほうが悲壮感が増してていいね。
ハルクのルックスも、心優しき力持ちって感じでどこか憎めない。
ブルース→ハルクへの起源とか、原作とはだいぶ設定も違うみたいだけど、反戦、反暴力的な意味合い、軍拡による自己矛盾、自戒の念なんかを含ませるあたりに、世界警察アメリカらしさを感じる。
オレたちは反省してるんだぜ、みたいな。
別にそれでどうこうってのはないのでおいといて、銃はおろか爆弾、ミサイルも効かないボディー、人間の10倍くらいの体積を持ちながら飛ぶわ跳ねるわの機動力、空こそ飛べないものの、かなり強烈なキャラ。
ハルク捕らえん!がひとつのテーマなので、市街地での白兵戦は、ニューヨークのロケーションと相俟ったミスマッチが迫力を加速している。
多勢な軍との対戦も面白かったが、同じく超人同士の対決となった、ブロンスキー(改)との対決も興味深い。
つか、エドワード・ノートンも、ブロンスキー役のティム・ロスも磐石の演じっぷりなんだけど、互いに超人化しちゃうとCGになっちゃうのが勿体ない。
あの2人ならば、哀しき運命を負った超人の悲哀と苦悩も渋く、演じてくれただろう。
バットマンとかウォッチメン的な人型ヒーローであればもっと活かせたかもしれない。
つか、モンスター同士の絵面があまり美しくないのと、武器もうまく使えなかったり、攻撃のバリエーションに乏しくって、この最大のバトルシーンがあまりかっこよくないのがちと残念。
話をブルースに戻すと、ストイックでまっすぐな思いの末に、国境越えなどお手の物、軍の尾行も潜り抜けるスパイ的スキルに長けたスーパー物理学者になってるところとか、あまり過去が語られないので唐突な展開がいくつかあるのも、豪放なハリウッドテイストということで。
ハルク化したときに下を出しちゃわないようにと、超ストレッチ素材のパンツを用意するとことか、お茶目で受けるよね。
愛するベティとのベッドインも、心拍数でできない、というエピソードは笑えるようで笑えない。
恐らく逃避行の末に成長していったんだろうけど、今作の中でも戦うごとにブルースとハルクの距離が近くなり、一度は念願かなってガンマ線の汚染を除去するも、ベティの危機、ニューヨークの危機を救うために再び緑の血を求め、姿を消したエンディングではその力を自身の身体に宿したと思しきカットを見せる。
次回作以降への伏線はバッチリ。
でも受け入れちゃったブルースって、どうなのかなあ?
ベティとは永遠にヤれないままってことなのか、もしくはDr.マンハッタンとシルクスペクターみたいなことになっちゃうわけ?
忌々しい。
その存在がことごとくハルクを救ったり、というかブルースの悲運のきっかけであり、一方で幸せの象徴だったベティ、彼女との関係性もこのお話の軸だわな。
美女と野獣の構図で、逃避行はボニー&クライド。
演じているのは久々に見た、リブ・タイラー。
いやはや、衰えることなく美人過ぎますなあ。
そのグラマラスなボデーといい、ぼってり艶やかな唇といい、美しすぎる。
ひたすらにポジティブで強く、ハルクを支える役どころがまたハマってる。
リブ・タイラーの凛とした美しさを眺めるだけで、価値のある作品かもしれない。
ストーリーよりディテールのことばっか、残ったな。
ラストで「アイアンマン」の彼が出てきて、なるほど、と納得したが、事前知識ゼロ、今wiki見てみたら、マーベルのヒーローもので繋げてく、大きいプロジェクトなのね。
なんだかハルク、ブルースの行く末はあんまりファインじゃないみたいだけど、この先の物語もぜひ、見てみたい。
若干の消化不良がそこで、晴れてくれるといいんだけど。]]>
新世紀エヴァンゲリオン
http://blueredpsn.exblog.jp/12034309/
2009-07-29T13:34:02+09:00
2009-07-29T13:34:00+09:00
2009-07-29T13:34:00+09:00
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映画
「新世紀エヴァンゲリオン」、テレビシリーズ全26話から劇場版、「Air/まごころを、君に」までイッキ見。
夏休みを利用してのイッキ見、10数年経っても同じことを繰り返す自分に対し、なんともいえない気持ちに襲われる。
いきなりだが、人類補完計画こそ「逃げ」以外の何ものでもなくない?
戦争に環境破壊、愚かな人間たちに愛想を尽かし、一部の人間が人間外の力=神=使徒とか、の存在を知り、その力を得んとし動いた末にセカンドインパクトを起こし、今度は神=使徒たちの怒りを買っての戦いを招いた挙句、「始まりと終わりは同じところにある。よい。全てはこれでよい。」ってさ。
決着のつけ方が大胆かつ、安易すぎないかな。
大人なんだからもっと考えろよ。
どうしたら戦争しなくなるか、どうしたら自然や他人と共生できるのか。
そりゃさー、人類がひとつの個体になったら争いなんて起こりゃしませんよ、人間関係の歪みなんて生まれりゃしませんよ。
ぶっちゃけ、怒りや哀しみに疲れたとき、人類補完計画が発動したら楽なのに、なんて思っちゃうこともありますよ。
でも結局のところ、大人たちがそれを諦めちゃってるんだから、シンジに説教なんかできんのかよ、と。
親や親代わり、クラスメートに戦友、あらゆる人間関係で苦悩し、一喜一憂、喜怒哀楽の萌芽と絶望を繰り返すシンジ、彼の成長物語だ、なんて美談すぎるよ。
ついには「おめでとう!」「おめでとう!」「おめでとう!」でしょ?
まあ、気持ち次第で望んだ世界を得られる(っぽい)終末ってのは「おめでとう!」かもしれない。
それにしたって大人たちが、しおしおのシンジの心に甘い囁きかけ、どん底に突き落としては手を差し伸べ、って、シンジに「こっちのほうがマシ」って思い込ませてるだけなような気がする。
その意味では、初号機とともに人類補完計画の人柱に祭り上げられ、すべてを託されるという苛酷な運命の末に、新しい何もない世界にアスカと2人、残された劇場版のエンディングのほうが、大人たちから解放されるという意味で真に「おめでとう!」なのかもしれない。
あの荒廃した星でシンジとアスカが幸せになれたのだとしたら…腐った大人から自由を奪い取った、チルドレンたちの勝利ってことで大団円で納得するかも。
「序」、「破」と物語はだいぶシンジと綾波の関係性を厚くしてるけど、「新世紀~」のほうではミサトの存在感が大きいね。
子供⇔大人の構図の究極はシンジ⇔ゲンドウだけど、もっと細かい各論レベルでミサトのオトナ感がシンジたちの心情に微妙な影響を与える。
そもそもミサトはシンジに自分のトラウマを重ねているわけで、無理強いをしないとしつつも、どこかで希望を捨てきれない葛藤とかは見てて面白い。
一方でオンナになっちゃうと気持ち悪い。
加持との絡みはアスカやマヤを引き合いに出さずとも、「不潔」。
なんつうかああいうドロドロズルズルした関係性とかは、もうとことん嫌な「オトナ」の世界で、知りたくもないってのが子供のホンネだろうし、個人的にピーターパン的な発想からいくと、知らなくてもいい。
リツコとリツコママ=マギの、ゲンドウに対するあのやりとりも、知らなくてもいい。
むしろテンション上がるのは「破」での社会科見学みたいなところだったり、トウジと委員長の甘酸っぱさだったり、アスカが劣等感を抱く前のシンジとのやりとりだったりするわけで。
…エヴァを見て、その感想をこう吐露していくと、いかに自分が夢見がちティーンネイジャーのままか、っつうことを思い知らされるな。
世の中こんな感じで、子供のまま大人になっちゃった人とか、結構いるんだろうな。
オレもガキみたいなこというなよな、とか言ったりすることあるし、だいぶ歳取ったなって思うこともあるけど、やっぱ世の中の汚いものは大体、大人やオトナたちのものだ。
それらは毛嫌いする対象であるし、見たくもなければ知りたくもない。
新劇場版、カヲルは「今度こそ君だけは幸せにしてみせる」と言っていたけれど、シンジの幸せに自分を重ねられることを祈る。
だいぶ気持ち悪い感想文になってきたが、ディテールについても少し。
やっぱりサハクィエルまではバトルシーンの比重も高い、痛快さを残したロボットアニメとして楽しめたよね。
ラミエルを倒したヤシマ作戦の第六話「決戦、第3新東京市」、シンジとアスカの究極ユニゾンでイスラフェルを殲滅した第九話「瞬間、心、重ねて」、あとは3人のチルドレンの力を結集させた、シンジアゲアゲ期の絶頂で迎えたサハクィエル戦、第拾弐話の「奇跡の価値は」、この3つのバトルはバトルシーン、背景ともにたまらない。
第拾壱話の「静止した闇の中で」も好き。
停電した第3新東京市の中を歩き回るシンジ、綾波、アスカのやりとりがいいし、使徒とのバトルでのアスカの頑張りも素晴らしい。
このあと、使徒がマギに侵入してきたあたりから雲行きが怪しくなったね。
シンジを取り込んだレリエルとの戦いでは、せっかく前向きになりつつあったシンジの心をへし折り、初号機の力が覚醒の兆しを見せる。
参号機を乗っ取り、シンジにトウジ撃退というさらなるトラウマを与えたバルディエル戦は言わずもがなで、エネルギー波でアスカを汚染したアラエル、零号機と綾波に自爆を迫ったアルミサエルの精神への攻撃はもはやロボットを媒介にしたバトルの域を脱した世界観。
そして最後の使徒はカヲルであり、人間自身。
このバトルの変容、変遷もエヴァならではの世界だな。
改めてエヴァそのものが単なるロボット、兵器ではなく、限りなく生き物に近いものであることを、戦いを経ることに知ることになった。
キャラもそれぞれが立ってて、いい味出してる。
チルドレンたちはともかく、トウジとケンスケのホッとさせてくれる存在感も貴重だし、ネルフでもマヤに日向、青葉がいることがネルフという組織の特異性(妙に落ち着いてるw)を際立たせていると思う。
常にどこか諦観の念を漂わせている冬月がかなりツボなんだよね。
あれもまた、人類補完計画に加担している大人の一人なんだけど、あの枯れた感じかはたまた、うら若き日々のレジスタンス的立ち位置がそうさせるのか、なぜか好き。
ユイがコアなんだろうけど、冬月がゲンドウの片棒をかつぐようになる流れが少し速すぎて理解できなかったので、そこんとこ詳しく描いてくれたら見てみたいな。
つかセカンドインパクトまでを1話じゃなくってもっと深く、エピソード0みたいなのも充分作れるよね。
深く、終わりなきエヴァの世界。
おバカを極めつつ、繊細さも濁らせてしまっていたハタチ前後の身空では、かように楽しむこともできなかっただろう。
フィギュアも買ったりしてるし、もうこうなったら学園エヴァとかもとことん追ってやろうかと思う。
そして個人的セカンドインパクトを与えてくれた新劇場版に感謝しつつ、暇なので今日あたり、もう一回見てこよう。]]>
ハプニング
http://blueredpsn.exblog.jp/12033890/
2009-07-29T11:50:25+09:00
2009-07-29T11:50:23+09:00
2009-07-29T11:50:23+09:00
blue-red-cherry
映画
暇なので、ちょっと離れた駅前にあるゲオの旧作100円レンタルキャンペーンにあやかろうと、チャリで足を伸ばして入会、いくつか借りてきた中のひとつ、「ハプニング」を見た。
M・ナイト・シャラマン監督、って字面を見ると、シャラマーの「ナイト・トゥ・リメンバー」というオレの好きすぎるダンクラのタイトルが甦ってくる。
「シックスセンス」もおぼろげな記憶しかないし、「サイン」も見てない。
なんとなく評判よかった記憶があったので見てみたんだが。
日本版予告の冒頭にある、
「私たちは正体が分かっているものには
『恐怖』を感じ、
正体が分からないものには
『不安』を感じる。」
というコピーには、作品云々ともかく納得させられた。
確かにオレの雷嫌いは正体が分かっていて、あれの音、光が怖かったりする。
一方でまだみぬ新種のウイルスやいつくるかも分からぬ大地震なんかに関しては漠然とした不安を抱き、最終的には分からないんだから仕方ない、と割り切ることができる。
逸れたが、こと「正体不明の恐怖」を描くこと、そこに関しては120%貫かれている。
徹頭徹尾、今作の主題である、人々を次から次へ死へ至らしめる「何か」の正体は明かされない。
主人公であり、化学教師のエリオットの考察や、逃避行で出会った農夫による「植物起源説」もどこか信憑性にかける。
散りばめられたヒントらしきものには胡散臭さがつきまとい、挙句、一旦の終息後の見解ですら「自然のすべてを理解することはできない」という言葉で締められる。
確かに自然からの警鐘、自然破壊をやめない人間へのメッセージ、というのは分かりやすいんだけど、メッセージ強めたいならば、正体を明かしたほうがより伝えられただろう。
分かんないけど、たぶんそうなんじゃないかな、じゃ中途半端でしょ。
だから個人的には、植物起源説は否定したいところ。
かといってほかの理由も見当たらない。
「何か」に罹り、発症した人間が次々に自殺していく、という展開は非常に興味深い。
自殺なんて行為は、人の内面からの突き上げからがなければ決してできないものだし、神経ガス喰らっただけでそこまで突き抜けるとは思えない。
だから一度エリオット一行が食を求めて立ち寄った家、あそこでのやりとり、篭る人、逃げ惑う人、それぞれの心理的パニックがカオスを呼び、2人の若者が犠牲になったあのシーン、あの辺りの心理描写にヒントがあるのかなーなんて思って見てたんだけどね。
気持ちの問題、じゃないけど。
全部が全部そうじゃないからこれはこれで当てはまらないんだけど(公園とかで大量に死んだ人とか)、逃避行中で描かれた人々の死は、テンパった軍人とか、孤独すぎて狂った老婆とか、なんとなく心的に隙、暗部のある人が死んでってるような気がしてさ。
ラストのハイライト、エリオットと、アルマとジェス、愛するもの同士がその愛を貫き、危険を顧みずに「何か」の渦中に飛び込むものの助かるシーン、あれも純粋な心、愛のエナジーみたいなものを感じずにはいられない。
そもそも冒頭では夫婦仲がうまくいっておらず、様々な困難を乗り越えながら絆を深め合うエリオットとアルマが成長したことで、「何か」の恐怖まで乗り越えたっていうストーリーも成り立つような気が。
確かに、人がバタバタ死んでって、残されたものの中でのパニックを描き、群集心理の怖さって…みたいな作風だったら「ミスト」もそうだし、いっぱいあるもんね。
そういうのを越えた脅威、得体の知れない恐ろしさを描くならばこういう感じになるのかもしれない。
でもなんとなく感じた、薄さが拭えないんだよなー。
ラストシーンには絶対、衝撃の鬱展開が待ってる、と思ってたんだよね。
3ヵ月後…で笑顔を取り戻すジェス、アルマの妊娠が発覚する、なんてエリオット家的には、万事じゃないにしてもある程度のハッピーエンドじゃん。
あの幸せは絶対フラグだと思ってたんだけどなあ。
まあ、どっか遠い国で再び発生した「何か」は結局、世界的に広がっていったのかもしれないけど。
映画や小説、すべてを明かさないほうがいい、っていうのは大いに納得なんだけど…ってこうやって勘ぐらされてるだけで思うツボなのかもww
ちょっち腑に落ちないというか釈然としないというか、不完全燃焼な感があるのは否めないが、まあ楽しんだみたい。
アルマ役のズーイー・デシャネルさんが、見てるうちにどんどん美人に見えてきたことを付け足して、感想文を締めるとしよう。
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アメリカン・ヒストリーX
http://blueredpsn.exblog.jp/11989692/
2009-07-22T11:01:00+09:00
2009-07-22T18:59:10+09:00
2009-07-22T11:01:42+09:00
blue-red-cherry
映画
TSUTAYAが選んだ名作100選100円レンタル、という、自宅警備員(暫定)にはありがたいキャンペーンを利用し、「アメリカン・ヒストリーX」を借りてきて鑑賞。
「ファイトクラブ」での好演に引き続き、エドワード・ノートンの迫真の演技が印象深い。
同時に冷めた目の美少年、エドワード・ファーロングの佇まいも存在感充分だった(その後のキャリアは残念なようだが)。
ストーリーもまた、この2人のエドワードが演じた兄弟の絆、運命が静かに、そして力強くアメリカの病理をエグり出す、凄みのある内容だった。
オレのいくつか知り得るバッドエンディングの中でも指折りのバッドエンディングだったラストシーンが物語るに、公開時の98年、アメリカにおいて人種差別、格差差別の問題は自浄作用を持たず、解決する手立てをもたない構造的、根源的な病理であるということだった。
勤勉誠実に生きた父親を有色人種に殺されたことで(のちにダニーはそれだけではないとしているが)、白人至上主義を貫くことになったデレク(エドワード・ノートン)。
父親を失ったビンヤード一家は彼が暴徒と化していくにつれ、崩壊の一途を辿る。
やがてビンヤード家を黒人強盗が襲う事件が起き、それに対抗したデレクは強盗団の2人を殺し、弟のダニー(エドワード・ファーロング)は目の前でその凄惨な殺人劇を目にしてしまう。
デレクは逮捕され、残されたダニーはデレクの取り巻きとの距離を近め、敬愛する兄に近づきたい一心と、白人至上主義者の英雄となったデレクの後光を浴びることに悦びを覚え、デレクと同じ、悪の道へ足を踏み入れる。
堕落しつつあるダニーに、彼が通う学校の校長、黒人のスウィーニー、ほかでもないデレクを教え子にもつスウィーニーが、兄をテーマにレポートを書け、という指示を送ったのがこの映画の本筋になる。
そのレポートを書くために、ダニーがデレクの変貌、狂信を振り返りながら、回顧シーンをモノクロで挟みながら、現実と対比しながら進んでいく。
このモノクロの階層がまた、すべての色を排しつつも、より白と黒の構図を強調し、人種差別の現場をほかの色が混じらないことでより色濃く、鮮明に描いていて、刺さる。
ナチスの卍を体に彫り、部屋中に飾るデレクの狂信的な様は異様で、そして彼を崇めて群がる白人至上主義者の群れ、対立する黒人ギャングたちの生き様がもつエナジーは群集心理の恐ろしさが克明に伝わってくる。
怖い。
そんなデレクが刑期を終え、シャバに戻ってきたことで物語は大きく動く。
髪が伸び、トレードマークだったスキンヘッドもなりを潜めたデレクは、脱会を進言し、グループのボス・キャメロンを殴り、グループと弟に混乱を招く。
ここからは兄が語った獄中の物語。
想像に難くないが、デレクは獄中でもまた死と隣り合わせ、凄惨な目に遭っていた。
中でも白人至上主義を貫いたデレクは、同じ主義者と思しきグループと接近し、コンタクトをとるが、彼の崇高な思想からすれば彼らの主義は偽者でしかなかった。
徐々に揺らぐ自身の主義を、史上最強にいいやつ、な黒人受刑者とのコミュニケーションが崩壊させる。
挙句、仲間だと思っていた白人グループに犯され、彼の人種差別、白人至上主義者としての人格は崩壊し、更正を誓って出所したのだった。
世の中そんなにうまくはいかない。
誰もがそんなことはわかっていて、デレクの脱会、それを受け入れるダニーや、家族とのつかの間の幸せは完全にフラグでしかない。
無言でデレクとダニーが、彼らの部屋から卍の入ったモニュメントを剥がしていくシーンはかなりグっとくる。
社会に戻ったデレクに、スウィーニーは白人と黒人との抗争を鎮めるよう進言する。
応える決意、死地に向かう決意をするデレク。
最後の別れにと、言葉にならない思いを表情で伝え、ダニーを学校に送り出したデレクだったが…。
オレも死ぬのはデレクだと思ってた。
それに全編の多くを白黒の映像で多いながら、鮮やか過ぎる血飛沫で締めるラストシーン。
ついに仕上げたレポートを読み上げるナレーションとともに、崩れ落ちたダニー。
正直、ダニーを撃った黒人のガキが、それだけの行為にいたる伏線は描き足らず、短絡的すぎる行為と思えなくもないが、この構図自体が病理であることを考えれば、その理由は無為であればあるほど、この作品のメッセージは強度を増すのかもしれない。
誰よりも差別を推し進めていた男が更正への一歩を踏み出した瞬間に、その夢を打ち砕く悲劇。
一方でデレクは多くの悲劇を味わってきたものの、黒人の側からすれば、彼が奪った戻らない2つの命、そこにもまた、デレクとダニーの物語同様、深いエピソードがあって然るべきだ。
これは恐ろしく深い、人種差別という問題の一面を切り取った物語に過ぎない。
しかしその一面に描かれた、見ている者の希望をへし折る根深さは、これ一本で充分に伝わってくる。
ダニーがレポートを締めるのに使った一節。
「怒りにまかせるには、人生は短すぎる」
10年の時を経た今、真実は、現実はどうなっているんだろう。]]>
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破
http://blueredpsn.exblog.jp/11928305/
2009-07-12T13:07:27+09:00
2009-07-12T13:07:27+09:00
2009-07-12T13:07:27+09:00
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映画
金曜ロードショーで見た「序」の余韻を残したまま、ウィークデーの夕方に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」を鑑賞してきた。
過去のうっすらとした記憶をたどりながら、「序」や日テレの再放送を見ながらいろいろと勉強しなおしてるところ。
知識や経験が増えるたびに思うところが出てくるので、すべてが終わったらもう一度、劇場で観たい。
若き身空でエヴァというトラウマを背負い、この10数年、そこから逃れることなく生き、またヱヴァに出会った偉大なる先人たちに敬意を表しつつ、ミーハー心全開で触れ、どっぷり汚染されてしまった感想を書こうと思う。
やっぱり劇場版は2時間前後という尺が決まっているし、その中で何を見せるか、というのである程度の強弱をつけなければならない。
「序」ほど明確ではないが、「破」もまた旧エヴァシリーズをベースにしており、そこに新キャラを足したり、同じ事象でも配役・展開に変化をつけることで劇場版のフォーマットとして生まれ変わることに成功している。
その中で最初から最後まで、圧倒的で魅力的だったのがバトルシーン。
オープニングまもなく「365歩のテーマ」を軽やかに歌う新キャラ、真希波・マリ・イラストリアスと仮設5号機が登場し、第3使徒と激しいバトルを演じる。
四足、キャタピラ歩行の5号機の形状自体が興奮モノだが、いまだかつてない勝ち気で好戦的なマリのキャラと相俟って、初っ端からテンションぶちあがり、期待度も上がらせるオープニングだった。
加持の怪しげな動き、シンジとゲンドウのお墓参りシーンなどをしっかり挟みつつ、短いスパンで今度は2号機が着任早々、第7使徒と激突。
輸送機から放たれての空中戦、勇壮なBGMをバックに大空を旋回、目標に対しクルクル回りながらお得意のドロップキックでぶちのめす鮮やかな戦い方は、アスカらしい派手さ。
これで完全に掴みはオッケーだった。
残り第8使徒から第10使徒までの戦いはそれぞれにストーリーとしてもクライマックス、バトルとしてもハイライト。
まずはアスカ大尉の鼻を折り、シンジの株が上がった第8使徒戦は、エヴァ3体揃い踏み、迫力の迎撃戦。
巨大なエネルギーが落下してくるという恐怖を見事に発していた第8使徒だけども、それを受け止めてコアを叩くという、ミサトが立てた難作戦に全力で立ち向かうチルドレンたち。
使徒の軌道変更に臨機応変に対応したシンジと、そこをサポートしたミサト、初号機の街壁走りはみな口々に興奮したと言ってるように、ヤバいカッコよさだった。
つかこのバトル自体、エヴァ3体走りまくりで、エヴァが持つ人型だからこそのカッコよさ、しなやかな動きが最大限に楽しめた。
ラスト、シンジが支え、綾波が抑え、アスカがトドメを刺すというトリプルアタックもステキ。
第9使徒戦はもう、「今日の日はさようなら」に尽きますなあ。
新劇場版は、テレビほど鬱展開(もしくはキャラの心理描写そのもの)に割いてる時間が少なく、全体的にキャラ面では明るいテイストが漂うだけに、溜め込んだ鬱展開が爆発って感じ。
3号機のテストに臨む直前のアスカがもう、ミサトへの独白からしてフラグたちまくりなんだけど、たまらん。
3号機の爆発・暴走で早々にアスカの意識は絶たれ、使徒化した3号機は戦意を失った初号機を追い詰めるも、ゲンドウの指示で発動したダミープラグ操縦の初号機がまた、使徒よりも使徒的な戦いを見せる。
それもシラフのシンジをエントリープラグに乗せたまま…。
エヴァの捕食シーンってかなりエグい。
まさかのアスカ入りプラグを噛み切っての活動限界、背後に浮かぶ虹と先のBGMとともに、頭から離れませんよ…。
ラストの第10使徒戦は、ストーリーのコア部分を巻き込んでのカオス。
一撃でジオフロントへの突入を可能にした最強すぎる使徒を前に、最初に挑んだのは、傷んだアスカに代わり、マリが乗り込んだ2号機。
使徒の超強力なATフィールドを前に歯が立たないと判断したマリは、「裏コード、ザ・ビースト!」の掛け声を発すると、2号機の背中からプラグが隆起、自発的な暴走エヴァに変身。
まさに獣の戦い振り。
汚染されまいと意識を強くもちながらも、自らも獣のような激しさを見せるマリがまた、印象的。
その後、獣2号機がATフィールドを噛み千切るというありえない絵をはさみつつ、零号機と綾波が「碇くんがもう、エヴァに乗らなくていいようにする」っと自爆覚悟、感涙モノの特攻を見せるも、コアを閉じられて零号機と綾波は使徒に取り込まれてしまう。
この後の使徒の半人化、オレ、リリスとかもそうなんだけど、あのつるっとした感じが苦手なんだよねえ。
まあそれはいいとして、ここで、3号機戦で憔悴しきったシンジが復活、かつてない男ぶりを見せて初号機を覚醒させ、「綾波を、返せー!」、「来いっ!」と名言を残して使徒を殲滅、綾波を救出、そのままサードインパクトを誘発するという怒涛の流れ。
そして、「翼をください」…。
もう、このあたりはバトルとして語るには詰め込まれすぎだな。
エヴァの魅力はシンジや綾波、アスカら多感な子供たちの葛藤し、成長していく姿であり、ゲンドウを筆頭に、ミサトやリツコ、大人たちの苦悶でもあり、キャラに引っ張られている部分が大きい。
でも同じくらい、エヴァのフォルムだったり、動きだったり、ロボットアニメとしての大義名分の部分も重要だと思う。
その意味で、スクリーンでロボットアニメを描く上でバトルの迫力は不可欠であり、一番の見せ場であり、そこの迫力は申し分なかった。
そしてバトルと同じく重要な、第3新東京市の日常、シンジたちの日常、キャラの描き方もよかったなあ。
まず新キャラのマリだけど、エヴァ搭乗時に明らかにされる好戦的な、エヴァとの付き合い方も斬新だし、数度あったシンジとの邂逅で見せる、大人びたスタンスも今までにないアプローチ。
年齢公表されてないし、そもそも大人な気もしないでもない。
パラシュートでの落下に失敗し、シンジに覆い被さった際の窒息させんばかりの挟みっぷり、ピンクプラグスーツでたゆんたゆんを隠せない、そのグラマラスなティディー。
メガネ、ツインテール、ニーハイ、巨乳と、嘘くさくてやりすぎ感満載なキャラに、野郎どもはあっさりヤラレてしまっている。
まだまだイラストリアスでミステリアスなまま、シンジ以外のキャラたちとの絡みはほとんどなかったので、その辺は次回に期待(特にアスカとの邂逅…gkbr)。
シンジを中心に絡み合う、人の繋がりもまた、大きなテーマだった。
ヤシマ作戦を終え、褒められたことで急速に接近しつつあったシンジとゲンドウの親子仲。
ここを取り持とうとする、綾波の健気な食事会作戦がまた、泣ける。
つかポカポカしたお。
シンジの弁当男子っぷりとか、料理修行でばんそうこうの数を競い合う(つか一方的だけど)綾波とアスカとか。
トウジとケンスケも絡んでの社会見学、海洋研究所のピクニックも楽しそうで心温まった。
綾波の食事会作戦は、あそこでシンジのお手製味噌汁飲んだことがきっかけだったのかな?
シンジとアスカの背中合わせのシーン、アスカと綾波のエレベータ内のシーン。
ミサトが加持の男前に溜飲を下げるどころか頬を赤らめるシーン、初号機の地団駄。
トウジは助かっただけじゃなくって、妹さん(可愛い)も退院できてホント良かったよな。
好きなシーンがいっぱいだ。
最後に吹っ切れたシンジ。
「大人になれ」とゲンドウに諭されて、逃げることを選択したシンジが最後にとった行動は、自身の欲求に従っただけだった。
ネルフがどうとか、地球がどうとか、そんなの関係ない!の精神で、綾波を取り戻す、その熱情に突き動かされるがままの行動。
シンジ(さん)も頑張ったんだしお前らも、みたいなのをよく目にするけど、シンジはただ単に自身の欲求に従っただけだよね。
だからこそ、驚かされる綾波への想いの強さ。
あれほど忌み嫌った初号機へ再搭乗し、あれほど無双を誇った第10使徒を畏れもせずに正面からぶつかった。
だからこそのあの結果、誰かが言ってたけど、あのまま綾波と初号機(覚醒)に取り込まれてることが幸せなんじゃないかな、カヲルくん。
やっぱりテレビ版見てると、掘り下げ方が深い。
深部に近づけば近づくほど、堀り甲斐もあるし、語り口もたっぷりある。
その点で劇場版は時間的な制約がある分、どうしてもかなわない。
しかし劇場版ならではの利点、映像に音声、すべて活かしきっている。
今回描ききれなかったところを含め、「Q」でまた、何かしらの解答を見せてくれるだろう。
わーきゃー言うのは、すべて終わってからでいい。
今はまだ、楽しんでいたい。
「破」は四部作のまだ、2番目だ。
クライマックスに近づくにつれ、こんだけやりきってこの先どうすんだよ、と思うくらいの濃密な時間だった。
それこそ見終わったあとの脱力感なんかは「ダークナイト」とか、「ウォッチメン」とかに近い。
零号機飲み込んだ第10使徒はリリス化してたし、初号機は神化してたし、カヲルが槍持って降臨したし…いよいよ物語は、オレが当時ついていけなくなったカオスな流れになっていくんだろうな。
リリスとかアダムとかゼーレとかサードインパクトとか、頭使って見なきゃだわ。
カヲルの意味深発言を受けてのパラレルワールド説、ループ説、いやー、ホントエヴァシリーズって、人の感想見てるだけで楽しめる。
大丈夫、今回は思い入れが違う。
絶対に最後まで見届ける。
着々と旧シリーズ勉強してるし、フィギュ(ry、サント(ry
10数年、追いかけてきた生粋のエヴァファンのみなさんには正直嫉妬するし、頭が下がる。
でも一方で、「エヴァ」も「ヱヴァ」もフラットな目線で、全開ミーハーで楽しめる新参ならではの特権を今、最大限に堪能してる(周りのみなさまにはご迷惑をおかけしてますww)。
とりあえず旧版全部見てから、もう一回、劇場で「破」を見たい。
8月くらいまで引っ張ってくれるよね?
お願いしますよ、ミサトさん、8月まで、サービスサービスゥッ♪]]>
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
http://blueredpsn.exblog.jp/11903329/
2009-07-08T11:04:38+09:00
2009-07-08T11:04:38+09:00
2009-07-08T11:04:38+09:00
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映画
初めて見たのが97年のテレ東の「夏休みSPECIAL 4夜連続一挙放送」だから、12年ぶりか。
12年ぶりのセカンドインパクト、当時まったく刺さらなかった「エヴァンゲリオン」をいまさら楽しませてもらってる。
日テレの一挙“不定期”放送に釣られつつ、先週末は金曜ロードショーにて「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」を見た。
第1話から第6話を再構築した作品の構成にあわせ、件の再放送も進捗は6話まで。
期せずして両者の違いを比較しながらの鑑賞となった。
テレビ版の魅力を進化したアニメーションの技術で再確認することをひとつの目的とし、新たなエヴァシリーズの序章として描かれた「序」。
そのどちらの役割をも、それなりに果たしていると思う。
映像は格段に滑らかになっているし、1話~6話、エヴァの世界観のイントロダクションとなる部分をコンパクトに、無駄なく伝えられている。
でもエヴァの心理的なもの、哲学的なものを求めてる向きには物足りないだろうなあ。
それでもだいぶうだつのあがらない、もやもやうじうじした男子中学生の心象風景は描かれるんだけど、カットされた1.5日間の家出シーンとか、あのどうしようもないやりきれなさを、何の答えも展開も生み出さないのに描く、それこそ電車に乗りっぱなしのループを流し続けるような描写のようにストーリーの進行を妨げるかのような演出にこそ、その肝があるともいえる。
テレビ版の再放送を見ていると、その辺がボリュームたっぷりで、嫌な気分もマックス味わえる分、考えることも多い。
「序」はそういう、考えさせられるようなエグさがない分、ライトだし、綾波スマイルの感動もその分だけ、ちょっと弱いかも。
でも戦闘シーンの迫力とかはやっぱり、技術増してることでの臨場感得られてると思うし、背景の作画とか、細かいディテールの描き方で、現実感がグっと増してる気がした。
テレビ版にはテレビ版でしかできなかった価値があると思うし、見るべきものだと思うけど、これはこれで物語の体を成していて、「序」からエヴァに入って、「破」を見てその先も、という楽しみ方も充分できるんじゃないかと思う(実際オレはそれに近い)。
単純に使徒との戦闘シーンとか、アツいしね。
ガチすぎるラミエルと対峙するヤシマ作戦の緊張感はたまらないし、さすが特撮マニアたちの作品だと思う。
どうでもいいけど、松本人志の「大日本人」ってエヴァインスパイアなの(戦闘シーンとか、敵キャラとか)?
で。
12年前、深夜の再放送をVHSに録画して、夏の暑い昼間に見てたあの頃。
つかもっとガキの頃のもんだと思ってたわ。
それでも18、19のオレはこの作品にフィールしてなかった。
高校を卒業して、その足で大学に進学して、なんつうかあり得ない自由さを手にした頃だし、酒とかギャルとか、そういうのに狂ってた時期。
興味があるのは音楽で、テレビなんかほとんど見てなかったんじゃないかな。
そんな環境じゃ、このセンシティブかつ、重篤なようでいて普遍的な心の闇と葛藤と揺れの物語にフィールするわけがない。
それが一回りたったこの2009年の今、どういうわけかドンズバでハマってしまった!
恥ずかしながら、三十路を超えた駆け出しおっさんな今、間違いなく自分がヤマアラシのジレンマに陥っており、「逃げちゃダメだ」といろんなものに立ち向かっては、「僕なんかいらない人間なんだ」と思う日々。
イタタタタ…。
ミサトさんの母性や、偉大なる生みの親としての父像はまさに、ネガ感情の袋小路にいる人間にとってトラウマとなり、加速させるものであり、こんなものに多感な時期に出会わなくて本当に良かったと思うほど、よくできていて、訴えかけるものがある。
さすがに多少は大人の分別をわきまえているつもりなので、それこそエヴァにシンクロしすぎて破滅することはないと思うが、迷える今の自分の空気とマッチしすぎてて怖い。
なんとなく「序」、テレビ版でも「序」にあたるところまでの流れは記憶にあった。
アスカ登場以降ってどんなんだったか、あまり覚えてないな。
ゼーレとか、リリスとか、補完計画とかカヲルとか、断片的に覚えてる記憶を辿ってみると、確かこの先見てっても救われることはなかったような…。
でも見なきゃダメだ。
テレビ版も旧劇場版も、この先の新劇場版も
14歳の碇シンジにシンクロして、共感して、そんな三十路でいいわけないだろww
というわけで「破」を今日あたり、見にいっときます。]]>
SR サイタマノラッパー
http://blueredpsn.exblog.jp/11819979/
2009-06-25T12:15:18+09:00
2009-06-25T12:15:14+09:00
2009-06-25T12:15:14+09:00
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映画
号泣メーン!
泣く子も黙るシネマハスラーが掛け値なしの賛辞を贈った映画「SR サイタマノラッパー」を、何度目かのアンコール公演を開催中の渋谷・ユーロスペースのレイトショーにて鑑賞。
件のシネマハスラーも聴いていたし、各所での高評価も目にしてきた。
先入観がなかったとはいえないが、素で楽しめ、素で考えさせられた。
キラキラやドキドキで誤魔化されない、痛さや息苦しさで満ちた、真実の青春映画がここにある。
今度のライブの方向性、どうする?西海岸系でいくか、東海岸系でいくか?
海ないっすけど。サイタマ。
っという掛け合いですっかり知られた埼玉のど田舎・フクヤ市(深谷市)での物語。
今でこそ多様な広がりを見せている日本のヒップホップだが、それでも東京が中心地であることに疑いの余地はなく、地方都市にしても大阪や名古屋、博多、札幌と、大都市レベル以外はどこもこんなもんだろう。
レコ屋もねえ、ライブハウスもねえ、機材もなければチャンスもねえ。
でも、夢だけはある。
ニートのIKKU、おっぱいパブでバイトするTOM、ブロッコリー畑を営む農家のボンボン・MIGHTY。
彼らはヒップホップのカッコよさにヤラレ、ラップしたい、オレもエミネムみたいに、2パックみたいに、韻神(劇中にて伝説のラッパーとして崇められる)という衝動と、いかんともしがたい20代前半の埼玉のど田舎で暮らす現実。
物語はこの鮮やかで残酷なコントラストを繰り返し描きながら綴られていく。
ど頭からハイエースにすし詰め状態のBボーイどもが、カーステ全開のラップに揺れながらのニューサイタマドライブ。
たどり着く先は「ぼくらの七日間戦争」ばりにオンボロアジトな廃工場。
あーでもない、こーでもない、と夢を語りながら、結局誰も動けない。
いきがりとくすぶりの間で悶々とした日々を送る、全男子共通の煩悩が幾重にも折り重なる。
好きなことをやりたいだけ。
ビシっと迷彩にティンバーのブーツで決めて(イエローヌバック履けてないあたりが泣ける)、チェーンを下げてカッコよくラップして、男にも女にもモテたいだけ。
それなのに、夢を目指すだけなのに、悪いことしてるわけじゃないのに、大人が、仲間が、女が国が、ちっぽけな夢の妨げになる。
夢を目指すことって美談として語られることが多いけど、ただ物理的な困難を乗り越えていくだけじゃなくて、その夢が輝けば輝くほど色濃く出る、現実との距離感、虚しさとの戦いでもある。
一握りの選ばれた人間を除けばそれは、程度の違いこそあれど誰もが味わう苦さだ。
IKKUと仲間たちのやりとりは馬鹿馬鹿しくて、滑稽で、事実劇場では堪え切れなかった観客の笑い声があちこちで沸きあがる。
しかしそのすぐあとに訪れる現実との直面のシリアスさは言葉に出来ないリアリティがあり、一転、水を打ったような静寂に包まれる。
ラジカセで鳴らすいかしたビートを仲間同士で「ヤバくね?ヤバくね?」と堪能しあい、一人ヘッドフォンから流れる爆音に酔いしれ、埼玉の寂れた景色をクイーンズのプロジェクトに重ねて歩く道のり、ヒップホップに酔いしれる夜はいつだって空を駆けてるような気持ちよさ。
しかし一歩、その夢心地から踏み出せば、あっさりチンピラにボコられ、仕事もなければ金もない現実が待っている。
青春とは甘酸っぱいもの、だとは言いえて妙だが、酸っぱいどころか、苦いことだらけだよ、本当は。
いけてないSHO-GUNGの面々のいけてなさをより際立たせる存在として、IKKUとTOMの同級生にして、一足先に郷里を離れて上京、AV女優を経験し、またフクヤに戻ってきた千夏の存在感も外せない。
あくまで主役はIKKUとその仲間たちなので、彼女が(その設定の割りに)一面的にしか描かれないことに物足りなさを訴える向きもあるが、甘さを際立たせる塩、アクセントとしての役割はきっちり果たしている。
秘かに(というかダダ漏れだがw)思いを寄せるIKKUに対し、終始冷たく、厳しく当たる姿勢は、憧れの女性であるとともに母であり姉であり、ほっとけなさを感じさせる奔放な振る舞いは妹のようでもある。
男が夢を語る上で、女の存在は外せない。
あるときは夢そのものであり、あるときは支えになり、あるときは厄介な現実でもある。
そういった映画全体の文脈としてもそうだし、同級生を「オマエ」呼ばわりするあのヤな感じの女子感を絶妙に演じてたね、みひろ。
もう、このみひろの演技が素晴らしい。
単純に造形美として美しいのは周知の事実として、演者としての高いスキルを存分に発揮していた。
特に工場でIKKUと、無言でSHO-GUNGの曲を聴くシーンと、IKKUと別れ、再び東京に戻るシーン。
実際みひろ自体がAV女優であるがゆえに、「AV出てるくせに」というIKKUの弱さゆえのディスりへの対峙におけるリアリティはハンパじゃなく、そこで折れない芯と、隠しきれない痛みがにじむ表情にはグっとくる。
あそこは寄りで見たかったな。
そんなに出演シーンは多くないが、彼女の好演が強く印象に残った。
頭に書いたように、この映画はキラキラしてない(けど、キラキラしてるかも)、表面的ではない真実の青春を傑作映画だ。
大きなファクターである夢は、もしかしたら「日本語ラップ」じゃなくても良かったのかもしれない。
しかし、いち日本語ラップファンの目から見て、赤裸々なそれの描き方は、監督の並々ならぬ日本語ラップへの愛を感じた。
宇多丸氏も絶賛していたように、日本語ラップを描くならば、その滑稽さと、その本質、両方を描かないとエンターテインメントとして成立しない。
入江監督は日本語ラップ畑の人に怒られないか、心配だったようだが、まったくの杞憂だったと思う。
型にハマったヒップホップを目指さんとするIKKUが政治や事件性をトピックに求め、大風呂敷を広げる様は地に足ついておらず、本人とのギャップは滑稽そのもので、本質を伴わないスタイルは「ごっこ」であり、みひろに「宇宙人かよ」と突っ込まれて当然。
ヒップホップはアイデンティティーを発する音楽なのである。
試行錯誤を繰り返し、芽は出ず、辛酸ばかりを舐めさせられたIKKUがラストのシーン、衝撃のフリースタイルのシーンで歌うのは飾り気なし、裸一貫、フクヤのダサいラッパー・IKKUのセルフボーストだ。
最後のシーンでこの、ひとつの真理にたどり着いたことに感動を覚えざるを得ないし、また同時に、IKKUとTOMがスピットするリリックはまさに魂がこもった言霊で、この音楽が言葉を伝える、言霊の音楽としての可能性を秘めていることを教えてくれるようにさえ思えた。
埼玉のくすんだ情景を映し出すのに、鮮明でダイナミックなフィルムは必要ない。
痛さを孕んだ日常の一こまを描くのに、VFXやドルビーサウンドは必要ない。
低予算映画だからこそ、持たざるものだからこそ、何かを伝えようとするスキルの高さがうかがえる。
最新鋭の技術はものごとそのもの(風景とか)を伝えることに長けているが、物語の本質や、人の内面なんかを伝えることの難しさは古くから、映像技術だけでは解決できない。
スムースな編集技術がないことを逆手にとった長回し、一発撮りは日常の1シーンに潜む機微を余すところなく拾っているし(衝撃のラストシーンの長回しに漂う緊張感ったらない)、仰々しいストリングスが煽らない静かな世界は、台詞やモーションが生む余韻を存分に楽しませてくれる。
先にも書いたが、プロット的な部分だけではなく、映像の部分でも楽しく笑えるシーンと、ひたすらに切なく胸に迫るシーンのコントラストが恐ろしいほど鮮やか。
釣り人ラッパーの魚ラップは秀逸だし、神がかった病弱ぶりと神々しいオーラを発したTKD先輩の描き方も圧倒的。
細かいディテールに忍ばせた笑いの要素だけでおなかいっぱい。
ユーモアたっぷり、ひとつのハイライトであるフクヤ市ピープルの前でのライブシーンの滑稽さと痛さは正直、TOMの弱さやMIGHTYの軽さがアシストして際立つIKKUのダサさが極まり、残酷すぎて泣ける。
本、演者、演出とほぼすべての面で感動した。
でもオレ程度の浅い映画経験値では、一回目のラストはその投げっぱなしなピリオドの打ち方に圧倒されて、泣けなかった。
衝撃的に痛く、カッコいいラストシーンをあの形で終えられ、見ながらその後の成功なり挫折なり、安易な展開を思い描いていたばっかりに、唐突な終わり方についていけなかった。
だからあのシーンのエグさ、美しさに気づいたのもエンディングの曲が終わって、一緒に観たダチと感想を話しながらのことだった。
だからたぶん、もう一度この映画を観て、あのラストシーンにたどり着いたら、その意味をかみ締めてきっと、号泣メーン。
しかし入江監督、年下っすか。
その事実にも泣ける。
だってこの映画、そりゃ宇多さんとかいとうせいこうさんが「あったあった、オレたちにもいけてない時代があった!」っていうのはわかるよ。
でもオレ、彼らが20代前半でくすぶってたのを単純に懐かしんで笑えないのよ。
オレだって今、30過ぎて何か自慢できる人生かっつっつたら、まだまだ悩んでるしくすぶってるわけで。
そういう意味でのキツイ感動もあり、とにかく観てよかったと思う。
そうそう、曲もいい。
「教育、金融、ブランニュー」は教育委員会や市役所職員前で歌ったからというシーンを差し引いてもいいメッセージをキャッチーに乗せられている。
エンディングテーマというかメイン曲の「俺らSHO-GUNG ~サイタマノラッパーのテーマ~」がいいんだよねえ。
特にブリッジのピアノの泣ける旋律!
R.I.P.TKD先輩、あんたすげえよ。
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千と千尋の神隠し
http://blueredpsn.exblog.jp/11707469/
2009-06-08T13:55:41+09:00
2009-06-08T13:55:39+09:00
2009-06-08T13:55:39+09:00
blue-red-cherry
映画
金曜ロードショーの録画にて「千と千尋の神隠し」を視聴。
例によってタイミングを逃し、一生見ねえだろうなあと天邪鬼モードに入っていたところを連れに薦められて見てみた。
そしてバッチリ堪能するっていう、食わず嫌いの典型的なパターンに陥った。
神々が癒しを求めて訪れる温泉旅館、っていう油屋の設定がいい。
宮崎アニメは現実世界とファンタジーの世界がすごく近い位置にいて、境界線も曖昧で、でもその中身はありえないくらいに対照的。
一方で実際の道後温泉や雅叙園を模したという油屋の内外観だったり、ルックスの部分で既視感を持たせることで、現実とファンタジーをないまぜにする(ありそうな旅館に人外の者がいる体とか)にすることでよりそのファンタジー感が際立つ。
日常に潜む神秘性というか、表裏一体、神々やらその類のものの存在を強く感じさせる。
とはいえそれ自体はおいそれと見聞きできるものではないし、ある種人の心の写し鏡だったりするので、それゆえに時代感、世相やメッセージみたいなものを読み取れるんだろう。
油屋に話を戻すと、周辺の町並みを含め、極彩色で描かれた全体のトーンが美しい。
鮮やかでカラフルな色味を宮崎フィルタで薄ぼんやりと包んだ柔らかくって明るい色合い。
あの色使いもまた、けばけばしい実際の世界との確かな距離感を生み出している。
訪れる神々や、待ち受ける人と蛙たちもいい。
どんなに恐ろしい設定のキャラでもどこか愛嬌がある。
ひたすらに純なカオナシ、粋でいなせな釜爺あたりはツボだった。
湯婆婆、銭婆の姉妹もいかにも宮崎アニメな存在感で、千尋の成長には欠かせない壁(と後押し)に。
舞台にキャラ、あらゆる設定部分を柔らかく描くことで間口を広げ、その中にエグ目のメッセージやらエピソードを自然に盛り込む。
両親が豚にさせられる話だって、豚全般のエピソードは結構エグいし、死に体のハクやオクサレ様とか、あの辺の見せ方の生々しさは強烈だ。
少年少女の爽やかな成長物語、で終わらない(終わらせない)のはこういう細かいディテールにヒントが散りばめられてるからだったりする。
深読みさせるのは釣り針垂らされてるからだもんなー。
湯屋=売春宿の話ってのも、この作品自体未見だったしそれにまつわる文献もスルーだったけど、見ててすぐに繋がった。
そこに深いメッセージがあったとは思えないけど。
単純に少女が様々な困難に打ち勝って成長していく物語として、素晴らしい作品だと思う。
オレたちが「ラピュタ」や「ナウシカ」をはじめて見たとき、環境や倫理観、そういったテーマに気づくことができただろうか。
きっとこの作品を見た少年少女は、人外なる者たちが多数登場する奇譚に胸をときめかせ、ちょっと大人になるのだろう。
とやかく言うのはおっさん、おばさんの暇潰しでいい。
少なくとも2度は楽しめる、そういう意味でもやっぱり優れた作品だと思った。]]>
300
http://blueredpsn.exblog.jp/11642669/
2009-05-29T21:56:00+09:00
2009-05-29T21:59:23+09:00
2009-05-29T21:56:11+09:00
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映画
「ウォッチメン」のザック・スナイダー監督による、同じくグラフィック・ノベル原作の「300」を見た。
「300」のザック・スナイダーによる「ウォッチメン」ってのが正しい時系列だが、それはいいとして、これまた例によって原作は知らない。
wikiを見る限り、史実にしっかりとのっとっていながら、脚色を強めていることも認めているみたい。
確かにあんなにハキハキ英語でしゃべんねーだろっていうそもそもの突っ込みどころこそ、序盤は感じたりするんだけど、圧倒的な映像美と有無をいわさぬめまぐるしい戦闘シーンの連続に、そういうディテールはどうでもよくなったわ。
撮影のほとんどがスタジオ、かなりCGで手が加えられているとのことだが、納得した。
山を見ても海を見ても空を見ても、どこもかしこも現実感がないというか、異世界感が出すぎ。
ロンドンどころじゃない厚い雲に覆われた黒い空の下では、黄金色の稲穂も怪しく揺れる不気味な存在でしかない。
エセ神様のエフォロイが居を構える山頂なんかはモロにファンタジーの域だからいいとして、同じ地球とは思えないほどのデフォルメ。
とにかくいろいろと振り切って描いていた印象だ。
生まれながらにして戦士になるべく運命付けられたスパルタの男。
その成長過程、ガキの頃から戦いの場に身を置き、数々の苦難を乗り越えて一人前の戦士と認められるまでの課程、言ってみれば幼少から義務教育が終わるくらいまでの流れを詰め込んだイントロにすごく引き込まれた。
結果として90%ドンパチやり合ってる作品なんだけど、導入は静かに、かつ重厚な迫力を持って見るものを引き付ける。
続いて戦いへ入る前に描かれるのは、スパルタ男を支える女。
ドンパチを除いた残り10%の内訳で大きな割合を占めるのが、主人公にしてスパルタの王・レオニダスの妃の支えぶり。
この妃役のレナ・ヘディがかんなりお綺麗な方で、濃厚なセックルシーンは正直どきどきするレベル。
だけどその美しさは、男顔負けの強さ、負けん気の強さを見せながらも、王を支えるべく日陰で尽力する凛とした姿があればこそ。
後半、裏切り者の評議員・セロンに文字通りハメられるも、衆目の中、ヤラレたときと同じ台詞を囁きながら剣でぶっ殺したシーンはアガった。
男、いや、漢、漢、漢な120分の中、美しさはもちろん、ストーリーでもアクセントになっていた。
でもやっぱり、この映画はスパルタの王・レオニダスとその僕というか盟友たちの、コアすぎてズルむけの男気譚である。
とにかくこの王様、ブレがない。
国力に雲泥の差をつけられている大国・ペルシャの使者を向こうに、妃と民を侮辱されたことの報いとして「ディス イズ スパルタァッ!」と凄みながら奈落の底に突き落とし、開戦。
国の通例に筋を通して神託を受けるも、理に適わなければ即翻し、多数の同意を得られぬならばと自身が最大限の信頼を置く近衛兵たちとわずか300人の軍勢で、10万人を迎え撃つ。
信頼で繋がれた少数精鋭はみな、子持ちで死地に向かうという徹底された絆。
それを体現しているスパルタの戦闘スタイルが面白い。
体の半分はあろうかという巨大な盾を大きく構え、隣の兵の体を守る形で重なり合いながら進軍する。
実際、ペルシャ軍を前に見せた、受けては跳ね返し、押し返せば斬り込む、重厚で勇ましい歩みはさすが漢の戦い様だった。
無謀に見えながらもしっかりと練られた戦いであるところも、深く楽しめるポイントだ。
ペルシャの王・クセルクセスの度重なる誘惑には目もくれず。
相手を討ち帰せば豪快に快哉を叫び、同胞の死には厳粛に喪に服す。
勇猛果敢、大国に勝らんとする戦いぶりだったが、右腕だった隊長の息子が倒れ、腕利きは片目を失い、傷ついたレオニダスと仲間たちは終ぞ、四方を塞がれる。
この窮状に漢たちは、ついに死地をみつけたりと、最後の最後まで男気を見せ、王が放ったこの言葉、「Tonight, We die in hell!!」!
いやあ、狂ってるww
でもカッコいい。
全編を貫いた、ちょっと毛色は違うけど油絵のように濃厚なビジュアルは、細部に至るまで凝られていた。
怪しさを演出したペルシャ軍のオリエンタルな装飾もよく出来てたなあ。
こういう時代の象って、ベルセルクじゃないけどもはやモンスターの域(この作品ではあっさり倒されるんだけどねw)。
ゲイっぽいクセルクセスに対し、兜に盾、槍剣と立派にそろえながらなぜかマントの下はパンツ一丁なスパルタ軍のガチムチっぷり、この対比も見ごたえがあった。
史実に基づく熱いストーリーを、必要以上に熱く燃え上がらせるディテールの描き方。
例によって原作のグラフィック・ノベルをかなり忠実に映像化した(だから絵っぽいってのもある)ようだし、また原作手に入れるかな(って「ウォッチメン」も読んでねえ)。
でもこうやって描かれると、そういう時代自体に興味出てくるよね。
今ある歴史スペクタクル漫画を読んでる最中なんだけど、古代ギリシャとかローマとか、その辺の話も俄然興味が出てきてしまった。
知識はいくらあっても無駄じゃないしな。
ごちゃごちゃいろいろ思ったりしたもんだが、いたってシンプルな映画。
生々しい戦闘シーンや、漢すぎる世界観は見るものを選ぶかもしれないが、男気を感じたい向きには300%、おススメです!]]>
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